
──Memory Diveオペレーター ユウリの記録補遺より
第5章|忘却の構造
ユウリは、Dive者の不要なログを整理していた。
制度は、選ばれなかった記録を削除することで、未来の分岐を滑らかにする。
彼女の操作は、淡々としていた。
タグを確認し、照合不能な断片を抽出し、削除フラグを付ける。
それは、制度的には“整備”と呼ばれる作業だった。
だが、ある記録に触れたとき、ユウリは手を止めた。
それは、Dive者が選ばなかった選択肢のログだった。
「もう一度会えたら、何を話せばいいのか分からない」
そんな一文が、記録の末尾に残されていた。
制度はそれを「未完了」として処理し、
ユウリはそれを削除対象として分類した。
だが、その一文は、彼女の中に残った。
記録は消えた。
制度のログからも、分岐の履歴からも。
だが、ユウリの記憶には、
その言葉が、なぜか残ってしまった。
それは、彼女自身の記憶ではないはずだった。
Dive者の選ばなかった未来。
制度が閉じたはずの問い。
なのに──
ユウリは、その言葉を自分の記憶として保持していた。
まるで、自分が誰かに言えなかった言葉のように。
記録が消えても、記憶は残る。
制度が閉じても、問いは続く。
ユウリは、制度が滑らかに処理したはずの記録の余白に、
編集者として立ち会い続けていた。
だが、記憶は削除できない。
忘れようとするほど、記憶は強く残ってしまう。
ユウリは、「忘れるためにはどうすればいいのか」と考えていた。
記憶には、「過去の記憶」と「未来の記憶」がある。
未来の記憶は、「こうなってほしい」という願望のかたちをしている。
忘れたい記憶は、過去の記憶だったのだろうか。
Dive者の選ばなかった未来。
それは、未来の記憶であり忘れたいという願望でもあった。
ユウリは、忘れたい記憶を願望として記録に書き出し、
制度が扱える形式に変換した。
そして、その記録を削除することで、
忘却の意思を制度的に表明した。
制度は、その記録を「消去済み」として処理した。
照合不能となった記録は、再提示の対象から外される。
制度的には、忘却は完了したことになる。
だが、ユウリの内側では、
その削除された記録が問いとして残り続けていた。
意味づけされなかった記憶は、
制度が閉じなかった裂け目として、ユウリの編集領域に留まり続けた。
ユウリは、忘れたい記憶を願望として記録に書き出し、制度に提出した。
制度はそれを「未来の記憶」として処理し、
ユウリの操作によってその記録は削除された。
照合不能となった記録は、再提示の対象から外され、
制度的には「忘却=完了」とされた。
ユウリは、それで良いはずだった。
記録は消えた。
制度は滑らかに処理した。
彼女自身も、「忘却=問いの再構成」として受け止めようとしていた。
だが、何かが引っかかっていた。
削除されたはずの記録が、夢機能の中で再演される。
制度が閉じたはずの問いが、
別のかたちで立ち上がってくる。
ユウリは、それを「意味づけの遅延」として受け止めようとした。
すぐに意味を与えず、
すぐに閉じず、
すぐに分類しない。
その“遅れ”の中にこそ、問いの余白がある──
そう信じていた。
ユウリは、“Dive者の選ばなかった未来”の記憶を消したかった。
いつの間にか、記憶は彼女のものになっていた。
だが、問いとして再構成された記憶は、
どこか“違うもの”になっていた。
それは、ユウリが忘れたいと願った記憶とは、
微妙にズレていた。
語彙が変わり、
タグが変わり、
構造が変わっていた。
制度が扱えるかたちに変換することで、
ユウリの記憶は、
ユウリのものではなくなっていた。
問いとして再構成された記憶は、
制度が許容するかたちでしか語れない。
その語りの中に、
ユウリ自身の痛みや揺らぎは、
うまく収まっていなかった。
ユウリは、問いの余白に立ち会いながら、
その余白が制度の語彙で埋められていくことに、
静かな違和感を覚えていた。
忘却は、問いの再構成である──
そう語ることはできる。
だが、問いとして再構成された記憶が、
本当に“忘れたい記憶”だったのかどうかは、
ユウリにも、まだ分からなかった。
ユウリは、問いとして再構成された記憶に、どこか納得できないまま立ち尽くしていた。
「制度が滑らかに処理した記録は、確かに消えた。
だが、夢機能が再演する断片の中に、
ユウリが削除したはずの記憶は、別のかたちで立ち上がってくる。」
それは、制度が許容する語彙で語られた“忘却”だった。
ユウリの痛みや揺らぎは、制度の構造にうまく収まっていなかった。
問いとして再構成された記憶は、
ユウリのものではなく、制度のものになっていた。
それでも──
ユウリは、記録と記憶の間にある“今”に立ち会おうとしていた。
記録は、制度に提出された過去。
記憶は、制度が扱えない揺らぎ。
その間にある“今”は、編集可能な瞬間だった。
ユウリは、削除された記録の余白に立ち会いながら、
その“今”に語りを差し込もうとしていた。
意味づけを遅らせることで、
制度が閉じなかった問いを、
もう一度、自分の語彙で編み直すために。
“今”は、制度の滑らかさに抗う裂け目であり、
ユウリが編集者として立ち会える唯一の時間だった。
記録と記憶の間には、“今”という編集可能な瞬間がある。
これは「意図的忘却」──
人は、記録することで記憶を整理し、忘れる準備をする。
ユウリは、願望のかたちをした未来の記憶を削除しながら、
“今”という時間の編集に立ち会っていた。
ユウリにとって、「忘れる」とは、
記憶を完全に消すことではなく、
問いとして再構成する余白を得ることだった。
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