📘 第1章｜受付の向こうの世界

📘 第1章｜受付の向こうの世界

記録が、人の未来を決める時代になった。

この都市では、個人の「能力」が常に数値化されている。

脳のスキャンで読み取られた思考の動き、感情の波形、判断傾向はアルゴリズムにかけられ、“能力値”として記録される。

この数値は、職業や生活だけでなく、何を想像しようとするか、どんな選択肢に触れられるかまでを静かに制限する。

たとえば、創造力が低いと判定された人には、芸術的な選択肢が推奨されなくなり、その結果、「想像する権利」が現実から遠ざかってしまう。

想像できないから選べない。選べないから、もう想像しなくなる――そんな循環が生まれるのだ。

自分という存在が、記録によって“分類可能な人物”として処理されていく。

数値化された思考、統計的な感情パターン、既定の選択履歴――それらが並べられたとき、私はただの“プロファイルの組み合わせ”になっていた。

（能力値によって“察する力”までが数値化される世界についても、コラム④「能力値と察する力の関係」で触れています）

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私は「Memory Dive」という施設で働いている。

受付に立ち、装置を操作し、客が持ち込んだ“物語データ”を読み込む。

人々は、制限された自分の能力値を超えて、“体験しえたかもしれない人生”を味わうためにやってくる。

装置の名前は、Dive System。

構造的には、記録再生装置＋身体感覚投影装置＋意識保留レイヤーの統合型。

（詳細は巻末の「Dive System／記録体験装置パンフレット」コラム①をご参照ください）

体験する物語の選択肢は多岐にわたる。ある客は小説化された人生をトレースする。

ある客は実際の記録を読み込み、自我を保ったまま“他者の人生”に潜る。

特殊なモジュールを起動すれば、体験中だけ疑似的に「能力値を引き上げる」ことも可能だ。

数値上は医師に向いていない人が、その能力を再設定して、外科医の１日を生きる。

逆に、「今の自分のまま」別の職業を過ごすモードを選ぶ人もいる。

編集者としての能力値のまま、音楽家の人生に飛び込む、というように。

時間軸も可変である。

現実では10分間の体験が、Dive Systemでは1日の密度として感じられる。

設定上、１週間以上のDiveも可能ではあるが、仮想現実内に“睡眠時間”は存在しない。

脳は休まず処理を続けるため、長時間Diveには疲労や記憶混濁のリスクがある。

そのため、長時間の記録体験は推奨されていない。

受付から見えるのは、淡々と物語に入り込む人々の背中。

それぞれが「まだ選ばれていない自分」を探しに来る。

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その日、受付に立っていると、彼女が少し躊躇いながら近づいてきた。

おそらく初めての体験なのだろう。手には事前診断のレポートが握られている。

能力値の概要、生活傾向、感情波形の統計――すべて数値で並べられた「今の自分」。

「こんにちは、Memory Diveへようこそ。はじめてのご利用ですね？」

彼女は、控えめにうなずく。

「どのような体験をご希望ですか？」

少し沈黙があった後、彼女は声を落として言った。

「向いてないって言われた職業を、体験してみたくて…。でも、自分の能力値では無理だって…」

私は選択肢の一覧をスクリーンに呼び出し、彼女のプロファイルと照合しながら説明を続ける。

「記録体験には３つのモードがあります。

• 《トレースモード》：記録された物語を、自我を持たずに追体験します
• 《感覚反映モード》：今の能力値のまま、記録に没入して“感じながら”体験します
• 《能力拡張モード》：仮想的に能力値を引き上げて、シミュレーションを行います

今回は、どのモードをご希望ですか？」

彼女はしばらく迷った末に、言った。

「…今の自分のままで、でも“違う人生”を感じてみたいです」

私は微笑み、パネルに指を走らせる。

「わかりました。それでは《感覚反映モード》を起動します。

時間軸は仮想で24時間。現実時間はおよそ9分間。意識は保たれています」

「記録リストをご案内しますね。

これは“体験記”と呼ばれるものです。記録者が語りきれなかった一部を含む断片たち。

職業別・場面別・選択型など、さまざまなシュチュエーションがあります。

編集者の日常の迷いに触れるものもあれば、選ばなかった恋人への返事を軸にした物語もあります」

彼女は静かにリストを見つめた。

“感覚反映モード”で体験可能な記録の一覧が並ぶ。

シュチュエーションごとに、物語の奥行きが異なる。

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彼女が止まったのは、「語られなかった返信」のログに付された体験記だった。

記録名『声の届かない編集室』。それは、選ばれなかった言葉を扱う記録だった。

彼女の言葉に耳を傾けながら、私は静かにファイル棚のひとつに手を伸ばした。

古びたインデックスに「＊届かない声」と記された記録群。

「これは…送られなかった記録です」

私はそう前置きし、その記録が「何かを選ばなかった者」たちによって残されたものだとだけ伝える。

編集室には、送られなかったメールや、直されなかった原稿のログが、静かに保管されている。

彼女は驚いたように眉を動かしたが、それらに触れることを選んだ。

「物語は…こちらの記録、いかがですか？

『声の届かない編集室』という体験記。

選ばれなかった言葉に向き合う編集者の話です」

（この記録の構造と選定理由については、コラム②「『声の届かない編集室』とは？」をご参照ください）

語り手である私は、さらに彼女にそっと説明を添える。

「この体験は、誰か他人の物語じゃありません。

…あなた自身の“もしも”です」

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彼女が記録を読み進めるたび、分岐可能性ログが自然と立ち上がった。

あるメールを「送っていたら」と仮定した物語。

ある言葉を「言い換えていたら」と仮定したやりとり。

私はあえて解説しすぎず、ただ傍らでスクリーンの切り替わりを見守った。

分岐点の記録が再構成されるたび、彼女の表情は微かに揺れ続けた。

あくまで能力値はそのまま。

だからこそ彼女は、「自分にも可能だったかもしれない人生」に、静かに共鳴し始めたのだと思う。

（こうした“選ばなかった声”に触れる体験の意味についても、巻末のコラム⑦に詳しくまとめられています）

すべてを読み終えたあと、彼女はしばらく沈黙していた。

その沈黙に、私はあえて何も言わなかった。

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ただ机の上に、最後の未送信メールの断片を提示する。

その文末には、送られなかった言葉が一行だけ残っていた。

「このままで、いいのかもしれない」

私は、それが“違う人生の中にも在ったかもしれない声”であることを、説明しなかった。

彼女はその一行を見て、ふっと笑ったような顔をして、そっとファイルを閉じた。

その瞬間、彼女は自分の「別ルートの人生」に触れたのだと思う。

声が届かないままでも、そこに声があったことを、確かに感じた。

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受付の向こうでは、誰かの人生が検証されている。

その背景にあるのは、「記録に残らなかった選択肢の再体験」だ。

選ばなかった自分、語られなかった私――その編集点が、やがて物語を揺らし始める。

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👉 記事一覧リンク：シリーズ⑥《未選択の編集点》

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🗂️ Dive System／記録体験装置パンフレット　コラム①

―『声の届かない編集室』体験記 解説付―

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🌀 Dive Systemとは

あなたの「選ばなかった人生」に触れるための装置。
記録された物語を感覚的に体験することで、過去の選択や語られなかった声に新しい意味を与えていきます。

🔧 構造ユニット

機能ユニット	説明
🧠 記録再生装置	認可された体験ログ・編集断片・創作記録を再生。分岐可能性ログ含む主観設計。
🫀 身体感覚投影装置	感情・動作・環境刺激を神経レイヤーに安全投影。触覚・体温・重力なども再現。
🌀 意識保留レイヤー	自己認識を保持したまま没入体験を可能にする。「自分として他者の記録に入る」感覚設計。

🕒 時間軸：現実時間9〜10分 ≒ Dive時間24時間相当
⚠️ 長期Dive（48時間以上）は非推奨。仮想世界に睡眠時間は存在しないため、脳疲労・記憶混濁の懸念あり。

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🗣️ 『声の届かない編集室』とは？　コラム②

ある編集者の記録です。
誰かに言うべきだったことを言えなかった、送るはずだったメッセージを送らなかった――そんな「言われなかった言葉」の断片を再構成した物語。

編集とは、完成させることではなく、聞こえなかった声に耳を澄ませること。
語らなかったことに対して、あとから“編集という返事”を試みる空間です。

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💬 よくある質問：心の声が伝わる装置ですか？　コラム③

それは近いですが、正確には“思念共有”ではありません。
記録を編集する過程で、相手が語らなかった意図に気づき、自分の言葉で編み直す力が試されます。

例：
「あのとき彼女は、本当はこう言いたかったかもしれない」
記録を読み直すことで、“届かなかった声”に応答する編集的対話が始まります。

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🧬 能力値と“察する力”の関係　コラム④

この世界では、能力値には次のような編集的読解特性が含まれます：

• 👁️‍🗨️ 記録読解力：文脈から意図や感情を汲み取る力
• 🫧 非言語察知力：語尾や沈黙から心情を感じ取る感受性
• ✍️ 再構成編集力：語られなかった声に、自分の言葉で応答する力

編集室の記録は、これらの能力によって“読めるかどうか”が変わります。
編集力が高い者には声が“見える”。低い者には、ただの空白ログとなることもあります。

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🎯 なぜ『声の届かない編集室』を彼女に勧めたのか　コラム⑤

彼女が求めたのは、「能力値の強化」ではなく「今の自分でも、違う人生に触れてみたい」という静かな願いでした。

記録の派手さよりも、選ばなかった選択に手を伸ばしてみたい――
だから、既に近くに在ったかもしれない分岐点に、そっと寄り添える記録を案内しました。

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📝 記録の構造　コラム⑥

• 　実在する編集者による“未送信”の記録群
• 　各場面に「分岐可能性ログ」が埋め込まれ、選ばなかった行動のシミュレーションが提示される
• 　主観保有型体験：体験者は“自分として”その判断に触れていく
• 　能力値がそのままでも、地続きの自己の分岐を味わえる設計

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🎧 選ばなかった声に触れるということ　コラム⑦

『声の届かない編集室』で体験者は、こう問い返されます：

「今のままでも、あのとき別の言葉を選んでいたら…？」
「あの返信を、ほんの少しの勇気で送っていたら…？」
「違う判断をしていた私は、どう生きていただろう…？」

それは単なる回顧ではなく、自分の内なる可能性と再会する編集点なのです。

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👉 記事一覧リンク：シリーズ⑥《未選択の編集点》