
──Memory Diveオペレーター ユウリの記録補遺より
第1章|選ぶことの揺らぎ
ユウリは、Dive者の来訪記録を読み返していた。
制度が提示した仕事──それは、記録社会において「最適化された選択肢」として分類されていた。
職務内容、適性評価、過去の学習履歴、交友関係、睡眠パターン──
すべてが滑らかに照合され、提示されたその仕事は、
Dive者にとって「選ぶべきもの」とされていた。
だが、Dive者は立ち止まっていた。
提示された選択肢に、なぜか手が伸びなかった。
「選ばなければならない」と思うほど、
その選択肢が遠ざかっていくような感覚があった。
迷いは、記録には残らない。
制度は、選択の結果だけを保存する。
だからこそ、Dive者はMemory Diveを訪れた。
選ぶ前の自分に、もう一度触れるために。
ユウリは、記録室の端でその来訪を受け止める。
制度が分類しきれなかった“選ばなさ”の痕跡に、
静かに立ち会う準備を始めていた。
Dive者は、制度が提示した仕事を選ぶのに悩んでいた。
仕事を選ぼうとすればするほど、「働きたくない」という気持ちが大きくなる。
50歳という年齢と、サラリーマンとしての長い経験が、選択の自由を静かに妨げていた。
彼の記録には、いくつもの矛盾が沈んでいた。
生活を安定させたいのに、新しいことに挑戦してみたい。
挑戦したいのに、なんとなく行動できない。
自分らしい仕事とは何か──その問いに向き合おうとすると、
他人の視線が気になってしまう。
過去を振り返ると、
本当は辞めたかったのに、諦めたくなかった。
仕事に集中したいのに、違うことを始めてしまった。
好きなことを仕事にしたら、嫌いになっていた。
ユウリは、その記録を読みながら、
共通するのは「考え過ぎて行動できないこと」だと感じていた。
制度が提示する選択肢に対して、Dive者たちは慎重すぎるほどに思考を巡らせていた。
選ぶことの意味、選ばなかったことの影響、
そして、選んだ後に残るかもしれない迷い──
それらを先回りして考え続けるうちに、
行動そのものが遠ざかってしまう。
ユウリは、記録の中に繰り返される沈黙やためらいの痕跡を見つけるたび、
その思考の重さに静かに立ち会っていた。
Dive者自身もそれを自覚していた。
「考えすぎて、動けなくなっている気がする」──
そう語った記録が、いくつか残されていた。
それは、制度の滑らかさに馴染めない者たちが、
自分の内側にある“問いの余白”を、
まだ手放していない証でもあった。
だから彼は、考えずに行動することを選んだ。
すると、今度は結果について考え始める。
「どうしてうまくいかなかったのか」
「この結果は、うまくいっているのではないか」
考え過ぎて行動できない状態を、
考えないで行動することに変えたのだ。
ユウリは、その転換に静かに立ち会っていた。
Dive者が「考えないで行動する」ことを選んだ瞬間、
それは制度にとっては滑らかな処理として記録された。
選択は完了し、行動は実行された。
記録上、迷いは存在しない。
だがユウリは知っていた。
その行動の背後には、
「考えないようにした」という意図的な遮断があったことを。
そしてその遮断は、
やがて「結果への問い」として、再び立ち上がってくる。
Dive者は、行動の後に問いを再開していた。
それは、思考を止めたはずの自分が、
再び「意味」を探し始めた証でもある。
ユウリは、記録の端に注釈を残す。
「この選択は、思考の停止によって実行されたが、
その後、結果への問いが再発生している。
行動の記録は完了しているが、意味の編集は未完である。」
制度は、選択の完了をもって記録を閉じる。
だがユウリは、問いの再発生をもって、記録を開き直す。
それは、制度の滑らかさに抗う、
編集的立ち会いのかたちだった。
そしてユウリは思う。
「問いを止めることはできても、
意味を止めることはできない。」
Dive者が再び迷い始めるその瞬間に、
ユウリの日常は、静かに始まっていた。
Dive者は、行動したことに満足していた。
仕事を選ぼうとすること自体に、満足していた。
「この仕事は、どんな仕事なのだろう」
「こっちの仕事は給料は高いが、やりがいは少なそうだ」
「前職と似た仕事は、やりたくないかも」
「やってみたい」と思っても、「やりたい」とは思わない──
その違いに、ユウリは立ち止まった。
「やってみたい」と「やりたい」。
そのわずかな差異の中に、Dive者の揺らぎが滲んでいた。
前者には可能性があり、後者には決断がある。
「やってみたい」は、まだ選ばない自由を含んでいる。
「やりたい」は、選ぶことで他の選択肢を閉じてしまう。
なぜなら、仕事を選んでしまうと、
仕事を選ぶことができなくなるからだ。
選択が完了することで、問いが閉じてしまう。
だが、選び続けることで、問いは開かれ続ける。
ユウリは、制度が提示した選択肢の滑らかさに抗いながら、
Dive者が「選ぶこと」そのものに立ち会っている記録を、
問いの余白として保存することにした。
最初から読む:第1章|選ぶことの揺らぎ
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