ユウリの日常:記録と記憶の裂け目で 『第1章|削除された備忘録』

ユウリの日常|記録と記憶の裂け目で

──Memory Diveオペレーター ユウリの記録補遺より

第1章|削除された備忘録

ユウリの業務のひとつに、Dive者の不要なログを削除することがある。
彼女は、ログの整理をする際に気になる内容の記録があると、
気になる記録を個人の記録として保存していた。

彼女は日々、他者の記録を読み込み、削除し、再編集する業務に携わっている。
その中で、自分の記録──とりわけ「何となく残していたメモ」──が、意味を持たないまま蓄積されていくことに違和感を覚えていた。

業務開始前、ユウリは自分の備忘録を削除することにした。

自分の備忘録を削除することは業務ではなく、私的記録の削除にすぎない。
また、制度の対象は「他者の記録」であり、「自分の備忘録」は業務外とされるのだ。

だが、彼女は自分自身に向けて、理由を考えていた。

彼女は「記録空間の裂け目」に立ち会う編集者であり、
制度が定義しない問いや揺らぎにこそ、意味の生成があると考えている。

そのため──
自分の備忘録を削除するという行為は、制度的には業務外であっても、
彼女にとっては「編集者としての実験」であり、「問いの発生装置」なのだ。

さらに、彼女は理由を考える。

制度における業務とは、定義された手順に従い、記録を処理することであり、
そこに「実験」や「問いの発生」は不要とされる。
しかし彼女は、制度が定義しない余白──
記録されなかった感情、分類されなかった選択、削除されたはずの記憶──にこそ、意味の生成があると考えている。

つまり、彼女にとって「編集者としての実験」は、
制度の外側にあるのではなく、制度の限界に立ち会うための業務の深層なのだ。


この「備忘録の削除」という行動は、人が未知の情報や構造に触れようとする内的動機であり、
制度的な業務においても、創造性や意味づけを生む重要な要素になるだろう。

ユウリは、制度の滑らかさに疑問を持ち、
自分の記録を削除することで「問いの発生装置」を起動させる。
それは、業務の効率を超えた「意味の編集」であり、
制度が見落とす揺らぎに立ち会うための、必要な逸脱なのだ。

見返しても「これは何?」としか思えない記録は、制度的には“不要”とされる。
だがユウリにとっては、それが「問いの余白」になり得る可能性もあった。

それでも彼女は削除を選んだ。
意味を持たない記録を残すことが、問いの発生を妨げることがあるからだ。

意味のない記録が積み重なると、思考が重くなる。
選択の手前で、問いが生まれにくくなる。
ユウリはそれを感じていた。
記録が多すぎると、何を考えればいいのか分からなくなる。
何を選べばいいのかも、見えなくなる。
だからこそ、彼女は自分の記録を削除することにした。
思考の余白をつくるために。
問いが立ち上がるための、静かな空間を確保するために。

ユウリは、自分の思考空間を軽くするために、記録の余白を意図的に作ろうとした。

削除されたメモは、ただの痕跡にしか見えなかった。
だが、記録を削除しても、記憶は「思い出」として残る。
ユウリはそれを知っていた。
だからこそ、記録を削除することで、記憶の揺らぎを観察しようとした。

そして彼女は、記憶の削除のやり方を探していた。


その日の夢の中で、ユウリは誰かの声を聞いた。
「それ、まだ覚えてるよ」
削除したはずの記録が、誰かの記憶の中で生きていた。
ユウリは目覚めながら思う──
本人が忘れても、誰かが覚えていれば、それは共有された記憶となってしまう。

逆に言えば──その誰かがいなくなれば、記憶は“なかったこと”にできるのかもしれない。

その仮説は、ユウリの胸に静かな葛藤を生んだ。
彼女は、ある記憶を“なかったこと”にしたいと願っていた。
それは、痛みを伴う記憶だった。
選ばなかった言葉、見送った選択、言えなかった感情──制度的には“未完”とされる記録。
だが、ユウリにとっては“過剰”だった。

その記憶を今も覚えている「誰か」がいる。
その人は、ユウリの言葉を聞いていた。
その人は、ユウリの沈黙を知っていた。
その人は、ユウリの選ばなかった選択を、別の記録として保存していた。

ユウリは、その「誰か」を消したいとは思っていない。
むしろ、その人が記憶を保持していることに、救われている部分もある。
記憶が自分だけのものではないという事実に、孤独が少しだけ和らぐ。
それでも──その人がいる限り、記憶は“なかったこと”にはならない。


「誰かが覚えていることで、記憶は消えずに残り続ける──それが怖くもあり、ありがたくもある」

ユウリはその構造を理解しながらも、記憶が誰かの不在によって揺らぐことに、静かな危うさを感じていた。

記録の削除と記憶の残存の間にある不安。
それは、制度が滑らかに処理できない「問いの余白」だった。ユウリは、その余白に立ち会う編集者として、
今日も記録空間の裂け目に静かに手を伸ばしている。

最初から読む:第1章|削除された備忘録


🌀シリーズ⑧ 問いの狭間へはこちら → シリーズ⑧ 問いの狭間へ

タイトルとURLをコピーしました